Japan Patients Association 


 
 今年は阪神大震災から20年の筋目を迎え、1月には各地で震災を風化させない取り組みがありました。そして、東日本大震災から4年が過ぎた3月14(土)・15日(日)、JPAは3回目となる「3・11大震災「福島」を肌で感じるツアー」を開催、福島、宮城の被災地を視察しながら復興への思いを強くしました。

 ツアーには伊藤代表理事をはじめ9名が参加しました。1日目は10時にJR郡山駅前を出発、福島の渡辺さんが運転するレンタカーで磐越自動車道に入り、いわき市で常磐自動車道を北上、「広野・楢葉」ICから国道6号線に降りて福島第1原発の横を通り福島県双葉郡浪江町に向かいます。
 常磐自動車道は昨年12月6日に山元IC~相馬IC(23.3キロ)、南相馬IC~浪江IC(18.4キロ)間が開通しましたが、今回は車から周囲の視察を行うため国道を通ることにしました。
 国道6号線は福島県富岡町-双葉町間は帰還困難区域による通行規制が続いていましたが、昨年9月15日に解除されました。今でも放射線量の高い区域で、道路わきには帰還困難区域を示す看板と共にヘルメットにマスク姿のガードマンがものものしく立っています。一方、交通量はけっこう多く、一般の車が平然と走行しているのにはちょっと驚きました。

 浪江町で地元の佐藤さん、南相馬市の江井さんと合流、5名が佐藤さんの車で居住制限区域にある自宅やその周辺を視察させていただきました。被災時、原発立地町の双葉町や大熊町と違い浪江町は政府や東電の対応が後手にまわりましたが、ここは今回の重要ポイントです。
 だれもいない浪江町立苅野小学校では、児童たちは今どうしているのかという思いがよぎります。震災時、情報が入らなかったことから、ここには多くの住民が放射線量の高いことを知らないまま避難しました。当時はかなり混乱したと思う場所も、今はただひっそりと廃墟化されつつあります。
 行政区ごとに除染作業が行われているのも見ました。しかし、佐藤さんの話では、セシウム137の半減期は30年あるし、資金力のある人は他の地域に家を建て生活基盤を移しているので、このあたりが復興することは今後もおそらくないだろうということです。
 そうしたところに巨額の費用を投じて除染作業をする必要があるのか。除染といっても放射線がどこかに消えてなくなるわけでなく、削った土を黒い袋詰めにして積み上げているだけです。環境省も「福島県は山林が多いため、土壌を全部剥いでしまうと、保水力低下、土砂崩れなどが起こる」(浪江町の説明会資料)と言っており、除染に限界があることを認めています。それならいっそうのこと除染費用で、被災した人の家ごと買い取ったほうがよほど生活再建につながるのではという思いもします。ただ、佐藤宅で、ご先祖の代からのたいへんりっぱなお仏壇を拝見すると、生まれ育った故郷を捨てるのはそんなにたやすいものではないということも理解できました。

 次は、みんなで浪江町の吉沢牧場を訪問しました。第1原発から20キロ地点の牧場には、現在も被爆により経済価値のなくなった牛300頭が飼育されています。今回は、吉沢さんから直接お話をお聞きすることができました。吉沢さんの話はかなりストレートです。
 「原発の再稼働が始まろうとしているが、国民は福島の事なんてひと言、よそ事。実際に避難を体験しないとわからない。農業用ダムは汚染されて使えないし、ここでは米作りはできない。米の値段も下がっているので農家もバカらしくてやらない。浪江町の漁港は9割の船はだめになった。町に戻ってなにをしますかという話。将来、解除になったときに帰るのはお年よりだけ。復興住宅の建設はオリンピックでさらに遅れる。除染はごまかし。見えるとこ除染、やっています除染という。浪江町は死の町、絶望の町と言ったほうがオレは正直だと思う。」といった内容でした。

 その後、昨年に続いて福島県南相馬市のJR小高駅(常磐線)周辺や海岸に近いあたりを視察しました。現在、小高駅周辺は避難指示解除準備区域になります。地震で壊れた家屋は取り除かれ、道路もきれいに修復されていますが、私たち以外に人影は見ませんでした。電車は不通のままです。
 海岸に近いあたりも、壊れた車などは撤去され、道路や電柱などのインフラ整備は進んでいましたが、崩壊した家屋が再建築されている様子はありませんでした。
 
 きょうの視察はここまでです。夕日が沈みかけたころ、今晩お世話になる福島県相馬市松川浦の「ホテルみなとや」に到着しました。ホテルでは新鮮な魚貝類を中心にしたおいしい料理をふるまっていただき、みんなで交流を深めました。震災ではみなとやさんも被災しています。ここから撮影したという津波のビデオを観ながら、被災された方々のご苦労をしのびました。
 松川浦では、他でも被災したホテルや旅館が営業を再開していました。地盤沈下した漁港などの修復工事も始まっており、福島県でもこのあたりまで来ると復興が進んできたことを実感します。ただ、おかみさんの話によると、漁船が漁に出るのは週に1回と決まっているそうです。理由を尋ねると、そんなにたくさん捕っても福島の魚は売れないからということです。以前のように築地市場(東京)に卸すこともできません。風評被害が気になりますが、東電は一刻も早く放射線を海に垂れ流すのをやめてほしいものです。
 
 2日目は8時30分にホテルを出発。きょうは国道6号線を北上して宮城県亘理郡山元町のJR山下駅周辺を視察、さらに宮城県名取市で昼食(牛タン定食)の後、閖上地区を視察してからJR仙台駅(仙台市)で解散です。
 山元町では、JR常磐線の高架による復旧工事がすすんでいるのが見えました。山元町の復興計画に合わせ、JR東日本でも津波被害の再発を防止するため軌道の一部を高架にして陸側に線路を移設しています。ここらで旧線から1キロほど陸側です。旧JR山下駅の前では、橋元商店が復興の力になればと震災からいち早く営業を再開されていますが、今後の復興計画や駅の移設による影響が気がかりです。定期バスの運行があり、住宅も少しずつ再建されています。農地では、いちごのハウス栽培が始まっていました。もともと果樹生産が盛んな地域ですが、水耕栽培は塩害による影響を受けないのが幸いかもしれません。
 少し車を走らせると、津波により社殿が流出した神社がありました。八重垣神社とあり、後日調べると流出したのは安政2年(1855年)に造営されたといわれる由緒ある社殿でした。車を降りて、伊藤さんらが再建された小さな祠(ほこら)に祈願しています。

 最後は名取市の閖上地区です。3月11日に近かったためか、同市で復興のシンボルになっている日和山(高さ6.3メートルの人工の山)には多くの人が訪れていました。近くで朝市の営業もあり、以前とは少し様子が変わっています。ただし、ほとんどの住宅跡は更地のままですが。
 海岸では巨大堤防の建設工事がすすんでいました。人命が大切とはいえ、陸を巨大堤防で囲ってしまうことには複雑な心境です。本当にこれが地域に暮らす人々の要望なのか、大災害から得た結論がこれなのか、いろいろな思いがめぐります。
 宮城県では国連世界防災会議の開催中で、JR仙台駅周辺の道路は大渋滞でした。地球規模では、毎年いたるところで災害が発生しています。各国の要人、専門家などが知恵を出し、お互いに協力関係を深めることにより、さまざまな災害を乗り越えていけることを願いつつ報告を終わります。

 なお、来年は5年目になるので、シンポジウムなど少し規模の大きい取り組みができればという意見が出ていました。そのときは、ぜひご協力をお願いします。      
                                                                 (藤原 勝)
                                                                            
 一般社団法人 日本難病・疾病団体協議会(略称 JPA)
     〒170-0002 東京都豊島区巣鴨1-11-2 巣鴨陽光ハイツ604号
     TEL 03-6902-2083 FAX 03-6902-2084 mail jpa@ia2.itkeeper.ne.jp
copyright©2016 Jpan Patients Association all rights reserved.