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難病患者サポート事業


お知らせ参加者の感想


 このツアーを初めて4年、3回目の実施でした。個人的には2011年4月から4回目の訪問です。開通した国道6号線を走りぬけました。そこは不思議な光景でした。富岡付近の線量は確かに高いものでした。2万人もいたという浪江の町は時間が止まって、動く、生きている人も動物も見かけることのない光景は不気味なものでした。ここには何万人もの人、家族がくらし、家があり、店があり、銀行があり、町が呼吸をし、動物が生きていた、ということは頭では理解できても、どうしても肌では感じることのできない光景でした。
 南相馬の小高地区も毎年訪れていますが、昨年には感じることのできた住民たちの帰還への希望が今回は微塵も感じられなかったのはどうしたことでしょうか。時のせいでしょうか。確かに除染は進んでいるように見えますが、その街や畑だったところ、道端の樹木、どこもまだまだ高い線量でしたが、線量の問題だけではない、人が住むことができない、あるいは拒んでいる土地が醸し出す、悪意のようなものを感じてしまいます。時間がたつほど苦しさも増していくような気持にさせられました。
 今年の宿は松川浦の一番海に近い端っこの「みなとや」でした。確かここは最初に訪れた時には津波の被害をそのままとどめていたホテルでした。そこに泊まり、ここで取れた新鮮な魚介類はまだ出せないけど、と言っていたおかみさんたちが精魂込めた料理は、全く豪華でおいしく、食べきれないほどでした。地元のお酒もおいしく、そしてこのホテルが呑み込まれていく様子を記録したDVDを見ながら、私たちは人的な被害がなかったから復興へこうして立ち向かうことができたのだけど、というおかみさんのお話を聞きながら、そして案内をしてくれた二人の地元の患者さんのお話を聞きながらの複雑な気持ちの夕食でした。でもまたきっとここに来たい、心づくしの料理とお酒をいただきたいという気持ちにもなった夕食会でした。
 山元町は大きないちごのビニールハウスが立ち並び、復興を感じましたが、閖上は仮設市場も開き、観光バスで訪れる人も増えていましたし、大きな防潮堤の工事が進んで風景も一変していましたが、なんだかかえって殺伐とした物悲しい印象だったのは私だけなのでしょうか。
伊藤たてお

 今回の訪問で印象に残ったのは、浪江町から避難した人の話でした。
 福島第一原発の立地自治体は双葉町や大熊町であり、浪江町は周辺自治体のひとつとしてその範囲で東京電力と協定を結んでいるとのことです。
 実際に爆発があった段階では、双葉町や大熊町には約100台のバスが配置され遠方への避難が行われたが、浪江町に十分な情報が伝わらず、山手の小学校に避難していたものの線量が高いとのことで、更に奥の中学校に避難したが、そこには更に高い線量があった。
 風向きが、丁度浪江町側に向かっていた不運もあったが、立地自治体の認定がない周辺自治体に大きな被害が及ぶことをあらためて実感した。
 当然ながら、京都もその例外ではない。
石井 正


 昨年のゴールデンウィーク、福島を中心とした被災地を回り、TVの画面だけでは伝わってこない厳しい現実を目にしたことで、当時と同じような気候を体感しながら、その後の被災地の変化を見たく、そして被災された人たちの生の声を聞きたくて、今回のツアーに参加しました。
 地震と津波被害だけだった地域は復興に向けた様子が見てとれましたが、汚染地域は4年という年月が経過したにもかかわらず、今も立ち入りが許されず警備の人が立っている状態。その差をまざまざと感じ、改めて放射能汚染解決の厳しさを実感しました。
 また、原発のある町村ではない浪江町や飯館村が風向によって汚染され、全域が避難地域になってしまったという現実。しかも、避難指示の対象地域から外れていたため、情報が届かず取り残されたという悲劇。そして今も避難生活は続き、空き家に残した金品・家財一切は盗りつくされ、復興どころか汚染が解消される希望はなく、戻れる見込みもない。時間の経過とともに福島のことは世間の話題に上らなくなり、存在が忘れられつつあるのでは…という怒り、悲しみ、あきらめ等が混在した彼らの話は心に深く刻みつけられ、福島での出来事は決して風化させてはならない、と強く思いました。
石井 小百合

 生まれ故郷の福島の被災地の現状を見つめ、復興に向けて自分が出来ることを考えるために初めて参加させていただきました。しかし、このような大災害を前にして自分の無力さだけを痛感したのが今回の結論です。復興に向けて着実に進んでいるという報道を見ることがありますが、この話は、一部の地域の話であり、ほとんどの地域では、目処すらも立っていないというのが事実です。私にできることは、今回の体験を多くの人に伝え、一人でも多くの人に被災地に足を運んでいただき、現実を見てもらうことです。本当に貴重な体験をさせていただきました。
早川 穣

 福島原発被災地ツアー・・・。
 国道6号線、エフイチ手前では空間線量が6.2μsV/hの数値を示しました。
 浪江町帰宅困難区域にある佐藤さんの自宅へ伺いました。道を挟んで居住制限区域と避難指示解除準備区域とは見ただけでその差が解ります。背の高いアシが生い茂っている田んぼと除染され新しい土が入れられたそれとの対比はシュールな風景を形作っていました。畦と稲の切り株も無く、同じ色の田んぼの中には高い真っ白の塀に囲われた除染ででた土等の広大な廃棄物置き場が不気味にありました。
 除染が済んだ家にはそれを示す立て札が立っておりましたが、戻ってくる人がどれだけいるか疑問だと佐藤さんは言っておりました。4年の歳月は長すぎるのです。生活基盤を他の地域に移した人も相当いるそうです。
 佐藤さんの家は震災後、相当メンテナンスしているようで綺麗な状態でした。それでも、牛が入ってきて空いた穴の跡、天井にはネズミが空けた穴などがありました。
 宿泊した「みなとや」は一階の天井まで浸水したそうで再開できるとは思っていなかったそうです。そこで被災した瞬間の映像(みなとやが映っています)を見せて頂き大変な時期を思い出しました。
 宮城県に入ると建設中の巨大な堤防が目立ってきました。阪神・淡路大震災の時と同じようにゼネコンを太らせるだけの復興に怒りを感じます。
 旅行の後に第3回国連防災世界会議がありパブリックフォーラムに参加しました。本体会議では原発災害は話し合われませんでしたが、パブリックフォーラムでは相当のブースが原発被害に当てられています。このことは政府がどう動こうと無視できないと考えています。
 福島沿岸以外の被災地は表面的には復興が進んでいるように見えます。でも、表通りから外れると更地が続くという状況です。エフイチ近辺は表通りの片づけすらなされていない、それを見て欲しいのです。
 この行事は参加人数が少ないとは言っても、是非続けて欲しいと考えております。非常時には後回しにされるだろう我々の義務だと思うのです。
NPO法人宮城県患者・家族団体連絡協議会 小関 理

 013年~2015年と3回目の参加となりました。2012年3月11日の東日本大震災から丸4年が過ぎ、国道6号線(通称6国)の全面開通(2015年9月15日)、常磐自動車道の全面開通(2015年3月1日)と目立つところでは復興が進んでいるように見えるが、6国も通行できるのは自動車のみ、そして側道にも入ることができず、駐停車も禁止です。途中、放射線量も5マイクロシーベルトを超えるところもありました。
 東京電力福島第一原子力発電所周辺は、昨年と同じで、新しくても生活感のない地区は、言葉には表せない、「復興」という文字がまだまだ見えないと思いました。一方、宮城県では住宅地の建設、堤防の建設等、「復興」の文字が少しずつ見えてきているような感じがしました。
毎年、「福島を肌で感じるツアー」としてJPAで企画していただきありがとうございます。次回は、暖かい時期に少しでも多くの方々が参加していただければありがたいです。
 今回は、レンタカーということで不慣れなドライバーの運転で失礼しました。
渡辺善広

 今回訪問した地域では、少しずつ復興している所、今後復興が期待できそうな所、今後も当分は復興の見込みがないと思われる所があったが、その大きな原因となっているのは原発事故による放射線の流出であることがよくわかった。
 海岸線には大型堤防工事が着々とすすめられているが、時間の経過と共に避難している人々の困難さが増していることを思うと、生活再建が先ではという思いがする。
藤原 勝


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