Japan Patients Association 

   




 東日本大震災を忘れまいという思いで続けてきたJPAの福島ツアーも今年で4回目になりました。今回は震災から5年ということもあり、2016年3月12日(土)から2泊3日で開催、例年の福島県から宮城県南部の視察に加え、オプショナルツアーとして宮城県北部から岩手県南部の陸前高田市、大槌町、山田町までの広い地域を訪れました。
 内容も、視察だけでなく被災地で活動する人や被災した方々の体験談を聴くなど、一歩踏み込んだものになっています。

[1日目]
 3月12日(土)10時、黄色の小型バスに13名が乗り込みJR郡山駅を出発しました。目指すは最初の視察地になる飯館村です。
 2015年の国勢調査速報によると、福島県の人口は10年前の前回調査に比べて11万5458人(5.7%)減の191万3606人です。福島第1原発の事故で、帰還を断念して避難先等に移住する人が増えています。昨年9月にほぼ全域の避難指示が解除された楢葉町でも、前回調査比87.3%減の976人と厳しい状況となっています。 
 バスは川俣町の休憩をはさんで2時間近く走り、阿武隈山系北部の飯館村に到着しました。バスを停めたのは、国道399号線と県道12号線が交差する臼石という居住制限区域です。線量は2.07μSv/hを示しました。村は全村避難で閑散としていますが、昼間は営業している事業所もありました。除染は終わっているようで、以前と比べると無人の家屋周辺もきれいになっています。
 政府は2017年3月までに「居住制限区域」「避難指示解除準備区域」の避難指示を解除する方針を出していますが、線量が完全に低くなったわけではなく不安が残るように思います。 
 昼食後、次に向かったのは南相馬市の小高区です。福島県では、あちらこちらに除染作業で出た汚染土が野積み状態で仮置きされています。除染が進むにつれこうした汚染土が増えますが、大熊町、双葉町に建設する中間施設の整備が遅れていることもあり、処理が追いつかない状況です。 
 バスは午後2時頃に小高区塚原(海岸の近く)に到着しました。ここは地震、津波、原発事故の三被害にあった地域です。昨年まで、この付近には被災した家屋が数件ありましたが、今回は撤去されていました。このあたりは避難指示解除準備区域で、津波被害にあった地域は更地で広がり防潮堤も潰れたままです。少し高台の家屋は崩壊を免れています。
 次に浪江町で思いでの品展示場を見学してから、同町の吉沢牧場(希望の牧場・ふくしま)を視察しました。あいにく吉沢さんは出張中でしたが、約300頭の被災した牛は元気そうです。入り口には「感謝」と書かれた大きな文字があり少し驚きました。原発災害から5年が経ち、吉沢さんの心境もだんだんと変化してきたのでしょか。ぜひ、お会いして聞きたかったものです。線量はけっこう高く4.70μSv/hを示しました。 
 さらにバスは小高区に戻り午後3時半頃、JR小高駅前を視察しました。昨年まで、駐輪場には自転車が震災当時のまま放置されていましたが、今回はきれいに撤去されていました。構内には作業車両が止まっており、再開に向けて工事が進んでいる様子がうかがえます。駅前には小さなお店が営業を始めていました。人の姿もちらほらとあり、昨年との違いを感じます。
 そして、午後4時をまわり原ノ町(南相馬市)のホテルに到着しました。ホテルでは、ほっとした気分もつかの間、ミニシンポジウムの開催です。 
 最初に、南相馬市立病院神経内科の小鷹昌明先生のお話を聴きました。小鷹先生は埼玉県出身、震災後に栃木県の大学病院を退職して南相馬市に移住されました。ここでは医療活動の他に、HOHP(ホープ:H=引きこもりO=お父さんH=引き寄せP=プロジェクト)を企画、男の木工教室や男の料理教室を開催して仮設住宅などで孤立しがちな男性被災者の支援をしていること。治安維持のため、市民マラソンチームを結成して夜の街をパトロール・ランニングしていること。その他にも、地元患者会との活動や介護福祉士の養成など、幅広く地域に根付いた活動を紹介されました。
 小鷹先生によると、男とはシャイでプライド高き生き物であるとか。そして、自分の役割があることと自尊心をくすぐることが大事だということです。そのため、ただ活動するのではなく、いろいろな仕掛けを考えておくことがポイントのようです。 
 次に石巻市で被災して、仮設住宅での生活を経て現在は同市の災害公営住宅(復興住宅)で暮らす鈴木明美さんの体験談を聴きました。鈴木さんは多発性硬化症を患い目にも少し障害があります。仮設住宅の改修で国が通達を出しても被災地の現場の役人までそれが届いておらず、障害者対応の住宅改修をお願いしてもなかなか取り合ってもらえなかったこと。災害公営住宅は若い世帯向きに設計されたもので高齢者や障害をもつ者には住みづらいことや通路から部屋内がよく見えることがストレスになるといった入居後の悩みなどをお話されました。また、鈴木さんは被災地で生きるためには、周囲に病気を理解してもらうことが重要だと述べ、自らも努力されておられました。
 小鷹先生と鈴木さんは、2013年発行の難病患者サポート事業 調査・記録事業「患者・家族のこえ Ⅱ」にも寄稿いただいています。 
 最後は浪江町で原発事故の被害に遭った佐藤正男さんの体験談を聴きました。佐藤さんは、昨年のツアーで居住制限区域の自宅を見せていただいた方です。佐藤さんは、福島第1原発の事故による精神的ダメージが大きく、夜も寝られず複数の薬剤を服用したことや夫婦仲もうまくいかず離婚の危機に至ったという話をされました。また、国や行政は浪江の人をみないで理想論だけと批判。もう浪江には戻れないし私の健康年齢はあと10年か15年だから、その間に楽しく死んでいきたいといった心情を語りました。シンポジウムの詳細は、JPAのホームページで公開しています。
 終了後は、みんなで食事をしながら交流を深めました。

[2日目]
 朝8時40分にホテルを出発、35分ほど走ると最初の視察地になる松川浦に到着しました。昨年まで、海岸沿いの道路は陥没などでがたがた道のままでしたが、今回はきれいに舗装されていました。漁港の修復工事も終っています。作業をしている漁師さんたちの姿も見かけるなど、本格的な操業に備えて準備が整いつつあることを感じます。 
 ただ、新聞によると2015年度の水揚量は、宮城県は震災前の78%、岩手県は67%まで戻ったのに対し福島県では魚種を制限した操業が続き、水揚げ量も震災前の15%にすぎません。原発からの汚染水の流出が完全に収まったわけでなく、まだこれからが正念場のようです。 
 その後、6号線を北上して10時頃に宮城県の山元町まで来ました。車窓からは旧線より500メートルあまり内陸に移動した新JR坂元駅の工事が進んでいる様子が見えました。私たちは、海岸側にバスを右折させ、毎回訪れている旧JR山元駅に向かいました。おなじみになった駅前の橋元商店を訪れると、店主の橋元さんは同町のかさ上げ県道の移設で住民との間で問題になっている話をされました。 
 山元町では、沿岸部を走る県道を最大で500メートルほど内陸に移設。4~5メートルかさ上げして防潮堤の役割をもたせる計画ですが、海側に取り残される15戸ほどの住民(笹野区)が県道ルートの変更を求めているということです。また、新しい県道ルートにはすでに補修した住宅が数軒ありますが立ち退きを迫られているそうです。橋元さんは、町と県で責任をなすりつけあっているが、すでに用地の買収に入っていると述べました。 
 山元町を後にするとさらに6号線を北上、お昼前ごろに名取市の閖上に来ました。ここは津波で約700名の死者を出したところです。車窓からは海岸近くでかさ上げ工事が着々と進んでいる様子が見えます。これは昨年まではなかったことです。巨大堤防の工事も進んでおり、かなり変わってきたという印象を受けます。
 個人的には、2013年のツアーで初めて荒涼とした閖上を見たときは言葉にならない強い衝撃を受けましたが、今回はそうした気持ちにはなりません。復興は大切ですが、もう少しそっと死者の魂を慰める方法はなかったものかなという心情でした。 
 12時40分、バスは仙台空港に到着しました。一部の方々とお別れして、昼食後はオプショナルツアーとして岩手県の陸前高田市を目指します。途中、石巻市で鈴木さんを復興住宅に送り届けてからは、ほとんど車窓からの視察のみとなり走りっぱなしでした。 
 バスは、大きくかさ上げをされた土地、繰り返し避難を呼びかけた女性職員が死亡した南三陸町防災対策庁舎、寸断された鉄道、被災した陸前高田市立気仙中学校、奇跡の一本松など、刺激的な場所を次々と通り過ぎていきます。
 そうして5時45分頃ホテルに到着すると、休む間もなく体験談を聴く会が始まりました。 お話をいただいたのは、地元・陸前高田市で被災して現在は家族と盛岡市の仮設住宅で暮らす佐藤 明さんです。佐藤さんも目に少し障害があります。鍼灸マッサージを生業とされ海岸から250メートルほど入った自宅・治療院で被災されました。
 地震後は、津波を予想してただちに家族と共に高台に避難したそうです。佐藤さんからは、とても寒かったという被災当時のことや現在の暮らし。ボランティア活動が生きる支えになっていることや地元に戻りたいけど戻れないという思い。仕事は再開したけど、慣れない土地で苦戦しながらがんばっていること。また、常日頃から防災意識をもつことがいかに大事か。それが生死を分けるといった話を聴かせていただきました。
 この後は、みんなで食事をしながら交流しました。たいへんなツアーですが、2日続けての宴会はけっこうなものです。

[3日目]
いよいよツアーも最終日です。夜が明けると、高台のホテルからは陸前高田の被災地が一望できます。津波にのまれた海岸沿いから内陸にかけて、重機で整理された広大な更地が目に飛び込んできました。きっと数年後には新しい市街地が形成されることでしょう。 私たちは8時30分に岩手県難病連の千葉健一さんの案内でホテルを出発しました。きょうは岩手県南部の陸前高田市、大槌町、山田町を視察する予定です。
 最初にホテルから5分ほどのところで、佐藤さんの住宅跡を見せていただきました。すでに土地は市に買い取ってもらったそうですが「ここです」と指を示す佐藤さんの思いはいかばかりかと察します。  
 近くには陸前高田市が震災遺構として保存する旧下宿定住者促進住宅及び旧道の駅高田松原があり続けて視察しました。
 それから千葉さんの車に先導されて、町長以下40名が亡くなった大槌町の旧役場庁舎を視察したのは10時40分頃でした。無残な姿を近くから見ると、なんともいえない恐怖の念を禁じ得ません。旧庁舎は保存か解体か現在も結論が出ていません。個人的には、命のはかなさやもろさを後世に伝えるという意味で保存も大事かと思いますが。 
 山田町では庁舎の屋上に上げてもらい、千葉さんの友人で町議会議員を務める田村剛一さんから被災時の様子や復興の説明を受けました。山田町は火災により多くの家屋が喪失しました。復興は多重防災式といって、海岸に9.7メートルの防潮堤を築き、その内側をかさ上げして商業施設にする。そして高台に住居を建設するというものです。しかし、住民も津波の直後は海が怖くて高い防潮堤に賛成したものの、落ち着いてくると必要性を疑問視する人が増えてきたといいます。陸から海が見えないという不安もあります。  
 海岸では問題の防潮堤工事が進んでいましたが、新しい町ができるまで、まだ数年は掛かりそうな様子でした。新聞によると、巨大防潮堤は岩手、宮城、福島の3県で総事業費約1兆円、総延長400キロメートル、最大で高さ15.5メートルを築くといいます。その是非をめぐっては住民の間でもさまざまな意見があるようです。 
 これで、すべての視察が終わりました。釜石市で昼食後はさらにバスで走り、JR新花巻駅・いわて花巻空港で予定通り3時頃に解散となりました。
 詳細な報告はJPAのホームページに掲載していますので、そちらもご覧ください。

[後記]
 駆け足でめぐった3日間でしたが、それでもすべての被災地を視察することはできません。あらためて東日本大震災による被害の大きさを実感しました。国道にはダンプカーがひっきりなしに走り、あちらこちらで巨大堤防の建設やかさ上げなどの土木工事など行われている様子に圧倒されました。
 2020年には東京でオリンピックが開催され、日本が世界から注目されます。当然、政府もこれを一つの目標として、大震災からの復興を世界中にアピールしたいと考えるでしょう。かといって、あまり急ぎ過ぎたり、外観に偏重することなく、被災された方々の生活の復興がしっかり進むことを願いたいです。
 4月14日以降、熊本県で大きな地震が発生しましたが、東日本大震災での取り組みや教訓は、他の被災地で行なう復興活動の参考になると思います。私たちの活動が少しでも多くの人々のお役に立てることを願い報告を終わります。
                                                                 (藤原 勝)

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