Japan Patients Association 
取材記
 被災地の見学について、地元の方から興味本位で来られることに違和感をもつという話を聞いた。それでも、今回のツアーには地元の方が3名も協力してくださったことは、JPAへの信頼が成し遂げたものだろう。特に南相馬で合流した江井恵子さんには、自分が暮らす仮設住宅を見せていただいたり、体験談を聴かせていただいたりとたいへんお世話になった。

 1日目、バスは朝日新聞の青木記者から震災に関するレクチャーを受けながら郡山駅から二本松を通り南相馬へと向かう。青木さんは、手抜きの除染作業をスクープしたことで知られている人である。バスから除染作業を何度も見かけたが、これについて地元の人の話を聞いて少し驚いた。いくら除染しても3、4日もすればまた元に戻るから意味がないという。除染したときはたしかに線量が下がる。しかし、風も吹けば雨も降る。やるなら線量の多い地域をすべてやらないと意味がないらしい。それならいったいなんのために除染をやっているのか。

 途中で何度かバスを降りて線量を測定するが、進むにしたがって数値が上がっていく。相馬郡飯館村付近では、店舗が閉鎖され、住宅にも人の気配がなかった。
 そして、南相馬「道の駅」に到着。ここで地元の江井恵子さんと合流して仮設住宅を見学させていただいた。住居内は広くはないが思ったよりもきれいで、少しほっとした。しかし、隣とは壁一枚なので内緒話はできないこと、狭い住宅中ではいくら家族でも24時間一緒では大きなストレスになるという。
 ちなみに江井さんは5人家族で3室あり、新しいので仮設の中でもまだ良いほうらしい。1人暮らしの場合は、四畳半ぐらいの部屋と台所といった具合だ。

 その後、バスは南相馬市小高区の塚原、村上周辺に入った。このあたりは現在も、半倒壊した家やくしゃくしゃに潰れた車や農業機械など、震災の爪痕が痛々しく残っていた。江井さんによると、小高町は昨年(2012年)4月から入れるようになったが、その後も特に復興はしていないという。

 そして、バスは浪江町に入る。とりあえず行けるところまで進もうということでたどり着いたのが吉沢牧場の前。福島第1原発から14キロの地点になる警戒区域である。同牧場は政府の殺処分方針を拒否して多数の被爆した牛が飼育されている。この先、道路は封鎖されていた。ここでもすでに線量計が9.99μSv/h以上を示し、参加者の顔に緊張感が走った。
 原子力発電所の再稼働については、国内でもさまざまな意見がある。今回はそれを論じる企画ではない。ただ、震災とそれに伴う原発事故が多くの人を苦しめ、その人たちの人生を変えてしまったことだけは歴然たる事実だ。そして、広大な土地を放射能で汚染させたが、それは遠い異国ではなく、私たちが暮らすこの国の話である。

 視察を終えると、さっそくホテルで学習会があり、江井さんの体験談や青木記者の説明などがあった。地元の方々は、震災から2年経つが復興はしていないという。実際に視察してもそれはわかる。たしかにガレキ等は取り除いてあったが、その跡には荒涼とした土地が広がるだけで人間の営みが見えなかった。
 「支援」を口にするのは簡単だ。でも我々にいったい何ができるだろうかと考えると、実際には難しい。これに対して、私たちを案内してくれたバスの運転手さんがたいへん参考になることを言っておられた。特別な「支援」はいらない、福島の方々とこれまでどおり普通に接してくれればいいのだと。福島のものを普通に仕入れたり買ってほしい。たいがいなにか「支援」というと1回ないし数回で終わる。しかしそうではなく、ずっと普通に接していくということは継続であり、それが大切なのだと。
 それからもう一つ、私が思うことは資源をふんだんに使いそのツケを後世に残すという現代の生活スタイルはどうなのだろうということだ。江井さんの体験談にあった「小欲知足」の意味を、私たちも真剣に考えるときにきているのかもしれない。

 2日目は8時30分に出発。今日は、相馬市の松川浦、山元町をまわってから宮城県に移動、閖上地区を視察する。
 松川浦では、看板のみが残された「水産物直売センター」跡地にバスを止める。漁港には多くの船が漁に出ることなく停泊していた。地元の人によると、現在は週に1度試験操業を行い、線量を調査しているとのこと。徐々に回復しているものの、若い者のなかには船を降りて除染の仕事に行ったり、漁業をやめる者もいるという。一日も早い再開を望んでいるが、福島の魚を捕っても誰が買ってくれるのか、漁師さんの心配は尽きない。

 宮城県亘理郡山元町では常磐線の「山下駅」周辺を視察。駅といっても駅舎は無く、電車も走っていない。トイレは地元の強い要望で撤去をかろうじて逃れた。このトイレから、再びこの場所に駅を再建してほしいという地元の強い気持ちが感じられる。
 多くの人が復興住宅などに移ったため、周辺に人影はなく、町が機能している様子はない。そういったなかで駅前に商店と簡易郵便局が一緒に営業していた。店主によると、お客さんはとても少ないが、なんとしても町を復興させたいという思いからがんばっているという。まさに山下駅周辺の復興のシンボル的存在である。

 そして、最後の視察を行ったのが名取市の閖上地区。ここは、かつてよく整備された住宅地だったが、今は広々とした更地になっている。すぐ横が海であり、震災でもっとも多くの人が亡くなった地域だといわれている。冷たい風が、私たちがこれまで「普通」だと思っていた生活はけっして「普通」ではなく実はとても脆いものだということを教示しているかのようだった。

 ツアーが終わり、喧騒とした都会に戻ると麻酔から覚めていくようにふと思った。被災地の方々もたいへんだが、私たちも毎日、生きるために競争社会やストレス社会のなかで必死に戦っているのだと。そうして、心の余裕をなくしているのかもしれない。
 しかし、だからといって自分の生活以外のことは関心が無いということではない。私たちの体内には温かい血が流れていることを忘れてはいけないし、被災地の方たちと共にその痛みを共に分かち合っていくことが大切ではないかと思う。私たちが難病を理解してほしいと訴えるのと同じように。
                                                   JPA震災ツアー取材班 藤原 勝

                                                                                                                                                   
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